一週間たって

いぬが死んで一週間たった。
上京が決まって、実家を出るってなったとき、いぬの死に目にはあえないかもしれない、わたしの知らない間にかわいそうなことになってしまうかもしれない、とか、いろいろ覚悟はしておったし、最後にあったときから三ヶ月たち、今までたぶんそんなにあわなかったことってあまりないので、というのも今と同じく東京におった学生のときは長期休暇のたびに目一杯実家に帰っておったので、おそらく、今までで一番間あけていたのかもしれない、ので、いぬの不在には慣れてはいた。けれども、それは、このさきも在ることを前提とした不在であって、永遠に不在となる日が、こんな急に来るとはなあ。東京の部屋にいぬがいないのは当たり前だけれども、実家にいぬがおらんのは、慣れんかった。いぬが出入り出来るように扉少し開けておくとか、夕方は電気つけたるとか、そういうことはもう必要ないのだった。けど、してしまうし、帰宅して扉開けたらいぬがまとわりついてくるから、動線を考えて出入りせなとか、ほんとうに、染み付いたものはなかなかとれないものだ。いぬはいないけれども、いぬの食器とか、汚れたぬいぐるみはあるし、よく使っていた枕もある。いぬはおらんのだけども。
わたしはまた東京に戻って、明日から仕事だし、だんだん平気になっていく。忘れはしないけれども、忘れるのが怖い気もする。実家に残してきた家族が心配である、両親にとっては、今や一人息子みたいなものだったから、わたしも弟も実家離れておったし。
形見ということで、お古のぬいぐるみと、まだ使ってなかったけれどもお気に入りのぬいぐるみのスペアをもらってきた。あと、遺骨を少し。棚の上を掃除していぬスペース作った。チーズをお供えした。わたしと同じで乳製品すきだったからなあ。牛乳でお腹壊すのも同じやな。死をきっかけにいぬスペースを作ったことで、今までおらんかったいぬが東京の部屋にきているようで、それもなんかへんな感じがする。
生きてると絶対死ぬしいつ死ぬかわからんしほんま、ありきたりで嫌なんだけど、後悔せんように生きんとなあと、、、自分に対しても大事な他者についても。
いぬとの思い出はこれからもわたしを慰めるけれども、いぬを撮った写真はもうふえないし、いぬの重みと温みはもう感じられん。毛も多くて立派やったなあ。悲しい。ひたすらに苦しいが、避けようもない別れである。半身を奪われるような別離は二度目であるが、性質も全然違うし、前のはただただ後味悪いものだったが、いぬとの死別は、苦しさではこちらのほうがむしろ大きいけれども、苦しいだけでなくて、いろいろ学ばしてもろている。ということで、いぬありがとうなあ。なんでそんな早く死ぬかなあ。つらい。さみしい。自分のことはほっといてでも守りたいと思える他者は恥ずかしながらいぬが初めてであったし、これを今度は親兄弟にも思えるようになったし、しかし、いぬ守られんかったなあ。前いぬと別れたとき、自分の寿命と健康をいぬにうつすまじない(自分流、適当)したんだけどあかんかったなあきかんかったなあ。